北の丸公園の芝生

じゃがりこを鼻に指していたら 思い煩げな女性が前方を通り過ぎていった じゃがりこはハトにやり GHQ本部に捜索を指示した






桜田門下 ホイールディスクカバーの調子





この一本桜、西日によって門の中は暗く、向こうは明るく光る。
植えた人も門をフレームとして意識したんだろうか。



ディスクカバーは黒いゴムを周囲にかぶせて、それをリムに押し当ててバタバタ音を抑えている。
リム高のあるホイールなら押さえやすいが、BSMのARAYA製は普通のママチャリと同じ形状だ。リム幅に合わせて当てるポイントが狭くて厳しい。大きければリムからはみ出すし、小さければ中に落ちてしまう。
内堀通りから日比谷通りにかけては、道幅があるようで自転車が走る幅はそんなにない。ダンプに後ろから勢いよく抜かれたりすると、ディスクカバーが受ける風圧でまるでハンドルが吸い込まれるように切られる。しっかり握っていないと恐かった。

ちなみに、これで走っていて視線を感じるのは幼稚園以下のちびっ子ばかりである。






秋ヶ瀬公園

左の写真、頭が写ってないヲ
右のが15秒後
LX3インテリジェント念写モード心霊写真キター
やばい、本ばっかり読み杉
首の部分の原寸大画像。
どーみても、フレームからはみ出しただけではなさそう。
「影くっきりだなー走りながら撮れるかなー」とか思ってた脳を量子的なゆらぎによって突き抜け、その先の雑草で跳ね返った光子がLX3のCCDまでたどり着いたのだ。
まさにシュレーディンガーのコヒーレントな子猫がflyby meである。ちがうちがう。






風が強くて自転車もへばる






このブログのヘッダ画像と同じ場所の冬景色












びびる大木



カメラを足元に置くと目を細めて太陽を見つめていた。
大丈夫お前はちゃんと頭が写っていたから明日がある。











よくみる撮り方に挑戦
後ろのお父さんのミニベロにチャイルドシートすごい






たこあげ
ちょっとトリムしすぎたか





そして最後に富士山!

でかい
やばい
ぞくっときた

空気が澄んでる正月限定かな








LX3光入れ

エンジンの場合だと「火入れ」といったりするが、カメラの初撮影だと「光入れ」か。
まだ機能がよく分からないので、夜景モードで撮って回った。


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先日携帯で撮った場所からリベンジ。
はるかにきれいだ。ただ全体にザラついているので撮影方法が夜景モードだけではだめなのだろう。
チェーンリングとフロントリムは磨いただけに光っているが、
実物はこんなに存在感があるわけではない。

新生銀行。
同じくざらついているが、
骨組みの質感は肉眼どおり。
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東京タワーの足に後頭部をつけて撮影。
カメラのモニター見た時はいいのが撮れたと思ったが、
あれもこれも枠に入れようとがんばりました感がちょっとがっかり。

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両手で頭を抱える女性の後ろ姿、タワーと同じトラス構造。
のつもりにしては女性が小さすぎた。
植木にカメラ乗せて変な撮影の格好だったが、ものすごい人だかりでしかもみんなカメラ手に持っているので、誰も気にとめない。

tokyoTowerTrussKikg.jpg




やっと捉まえたトラスの鬼っぷり、余は満足ぢゃ。








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桔梗濠から。
夜景モードでは肉眼で見た通りの暗さで、黒がつぶれてしまった。
絞り優先AEモードで撮ってみると、

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真昼みたいだ!
肉眼で見えないものまで見えているぞ。
マニュアルモードでいい塩梅にするには腕がいりそうだ。








野生に返る四つん這い姿勢、桜田門内の変

 帰社の帰り道、桜田門内。

ハンドルとサドルつまり前後輪の荷重配分でちょうど人馬一体感が増すあたりがあった。
といってもハンドルにはほとんど体重は乗せない。
ひじは閉じたまま80度くらい曲げて上体を寝かせブラケットを横から挟んでつかむ。
だいたい20km以上で走っていれば上体を寝かした分重心が下がってより車体を倒せる。
車体が寝てハンドルがそっちに切れようとする作用を手は調整する程度だ。
大きな石を踏んだり予想外の段差があったりしても姿勢を維持すればバランスが崩れない。
スキーで覚えた体重を乗せてターンする感覚と近い。
心臓のドキドキと呼吸のハアハアのリズムに合わせてなめらかな回転を意識して足を回す。

夜の皇居は余計なものが目に入らない。
広い歩道をランニングの人達を驚かさないようにひらりひらりと抜かしていく。
自分が自転車の一部になった感覚がしてくる。
何も考えなくなる。
足を止めてペダルを水平にして足とサドル半々ぐらいで体重を支える。
空っぽ頭に尻と両手から路面の状況が振動で伝わってくる。
グリスを盛りゴリゴリを抑えて組みなおしたハブの様子が思い浮かんで愛着が増す。
もっと転がれもっと転がれ。と念じて風を切る。たまらない。


などと、読点なしで書いてみるテスト。





堀田善衞展 スタジオジブリが描く乱世

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横浜の「港の見える丘公園」にある神奈川近代文学館で開催中の「堀田善衞展 スタジオジブリが描く乱世。」へ、15号線をひたすら南下すること約2時間半。

今は『ミシェル 城館の人』を読んでいるところだが、
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堀田善衞さんはなんとも親近感の湧く顔をされている。




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展示物に、昭和天皇が東京大空襲で焼け野原になった街を自身の足で歩いて見て回っている写真があった。戦局が傾いても軍部がほとんど実際の情報を報告せず、敗戦後、それでもGHQのマッカーサーの執務室まで出向いて「すべての責任は私にあります」と言われた人の、一面の廃墟をみて歩く昭和天皇の表情が印象に残った。国民はみな土下座していたそうで、堀田善衞さんは東京大空襲の体験者としてそれをみて衝撃を受けたそうだ。たしかに、天皇も天皇だが、国民も国民で、そういう文化の近現代国家は他にないのではないだろうか。侵略的な戦争をやったことはやったこととして別としてもらえるとすれば、僕は日本のそういうところが嫌いではない。

作家としての堀田善衞さんは以後反戦的な思想を持つのだが、いわゆる左翼としてでなく、ニュートラルな視点から物事の本質を見出そうと、人々が混乱、衝突する時代の社会と人物をテーマに作品を作られているようだ。鴨長明もその一人で、鴨長明といえば、

「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例なし。」で始まる方丈記。
学校の教科書で初めて目にしたが、冒頭句でいきなり満腹になるこんなセリフは一度読んだら忘れられないものだった。

その鴨長明と同時代の藤原定家を主人公にして、ジブリの宮崎監督と鈴木プロデューサーが映画化しようとした?作品が今回のメインである。ストーリー展開順に大量のカラーのスケッチが展示されている。なんでボツになったか知らないのだが、ストーリーの説明文と一緒に結末までじっくり眺めていけば、十分練られた幻のジブリ作品をもう一つみれることうけあいだ。

結末の内容はちょっと子供に受け入れられるのは難しいかもしれないが、僕はそれを見てもう一度最初の場所に戻って見直した。ぽにょはまだ見てないが、ぜひこっちを作品化してもらいたいものだと思う。『紅の豚』を宮崎監督は「僕の趣味でやったわがまま作品」といっていたが、どうしてどうして、北野武監督のことを思えば、「定家と長明」くらいはいいじゃないかと思ってしまう。僕は宮崎監督の大人向けの結末の作品を映画館で観たい。


あとは横浜の街をブラブラ。ルネサンス期のパリもすごかったんだろうけど、ミシェルがもし現代の横浜に住んでいたらきっと365日デートだな。
081107-160200.jpg 自転車は建物の横に地球ロックできた。
081107-160616.jpg いい公園だ。
081107-144338.jpg いい自転車だ。
081107-162652.jpg 腹ごしらえ。
081107-170755.jpg 異国かのような元町商店街。MGのTが店の戸口に置いてあって、ダッシュボードを覗き込んでいたら店員の人がこっちを見ていた。
それからほぼ異国の中華街とカップルばっかりの山下公園をブラブラして日が暮れたら、日本丸のライトアップがきれいだった。
「白いカノジョ(自転車)がいるじゃないですか」と昨日職場の人に言われてしまったが、自転車は自転車、これはデートではありません!(キッパリ)

帰り道に売り切れた足でふんばって黒いポルシェを抜かしたら、2回抜かれるたびにじろじろ見られた。




『フラット化する世界 下』@城南島海浜公園

城南島海浜公園
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バーベキューやキャンプ場の有料施設は大田区民しか使えないという、区民御用達でアットホームな雰囲気の城南島海浜公園。ビーチは無料。





モスのプレーンドッグ、ソーセージの端をねじってある腸のかたまり、味のないあれを何十回も噛んでいるのが楽しくてまた食べてしまう。






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北の奥に入り組んだ先にある、波がないお台場と違い、ここは砂浜に打ち寄せる波音を聞くことができる。ただし、すぐ南の羽田から離陸した旅客機がま上を飛んで行くので、轟音に包まれること数分間隔。これさえなければ…

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15章の「フラットでない世界」、文章がどんどん熱を帯びてくる。読む方も一気に読み進んでしまうのだが、著者のフリードマン氏は、本当は世界はそうやすやすとフラット化なんかしないと感じているのではないか。

世界中を取材してまわり、フラットにいきわたるITのテクノロジーを見るほど、欧米とイスラム諸国との果てなき対立がくっきりと浮かび上がってくるようだ。

著者によると、「中流意識」があるかないかは、収入の多い少ないではなく、自分の将来に明るい未来を思い描けるかどうかで分かれるらしい。自分も東京のワンルームで一人暮らしをしていて、さびしいと思いつつもやっているのはそれのおかげかもしれない。底辺PGではあるけれどIT業界でその技術で食べているという社会との接続があるからこそ勉強に楽しみもあり、またそれがなければ、とてもじゃないが東京で根なし草暮らしはやってられない。

911テロの実行犯たち、ヨーロッパでハンブルグ工科大学などに通いつつ何年も暮らしてれば、それなりに西欧世界で職を得て家庭を持ち、やっていくこともできたはずだ。秋葉原で殺傷事件を起こした犯人とは違い、「中流意識」は持てたはずなのに、なぜあんなことを起こしたのか(著者はアメリカの自作自演説を完全否定)と著者は考えている。

彼らはやっぱり、周囲のヨーロッパ社会には溶け込めなかった。そこで、地域の礼拝堂に顔を出して「温情や連帯感」を味わい、「信仰を新たに」した結果、過激派になっていったという。テロリズムは金銭的欠乏からではなく、自尊心を得られない「屈辱」から生まれるというのが筆者の説だ。

なにも極度の暴力テロに走るかどうかではなく、そうした傷ついた気持ちに対して宗教や集団活動に属することで温情や連帯感を分かち合おうとすることは、誰であろうとも否定も責めることもできない。これは絶対だ。
でも、屈辱を感じる疎外感から集まった集団は、いつか外との境界に心理的なフェンスが張られることになる。
そのフェンスは心理的なものにすぎず、たとえ向こう側に行くことができたとしても、一度生まれると二度と消すことはできない。人と人との信義心はかけがえのないものだから、かつて感じた温情や連帯感を忘れ去ることは絶対にできない。
世界がいくらどれだけフラットになろうと、その人が死ぬまでそれは終わらない。たとえ憎しみ合わなくても、軽蔑しあわなくても、かわいそうだと思わなくても、何とも思わなくなっても、フェンスはなくならない。僕は家族との間にフェンスが生まれて疲れ切った。だから自分を教祖にすることにしている。もちろん信者もいらない。

フラット化した世界がいつかくるなら、それはフェンスのない、ジョン・レノンの「イマジン」のような世界だと思う。(いつもこういうことをグズグズ考えているみたいだから、小学生の作文のように終わっておこう。書いておいて何だが考えても前に進まないし)






『フラット化する世界 上』@光が丘公園

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ジャズの音色に引き寄せられて一服。


連休最後の今日
ディズニーランドも入場制限されるほどの人出だそう。

光が丘公園もすごい人でボールやラケットで遊ぶ人でごったがえし
読書できないほどの騒ぎ声。
さっきのジャズ演奏の場所に戻ろう。


木で囲まれたこの小さな広場は反響がソフトなのか、
360度から聞こえてくるようだ。
1時間ほど読みながら聴いた。


ずっと立ち去らずに聞いているのが60人位の、上手いジャズだった。
最後はアンコールの拍手で再演奏。
演奏している人たちもうれしそうに歓談していた。



「フラット化する世界」とはいっても、アメリカ人ジャーナリストがアメリカ人に向けた本で、アメリカ経済の構造はこんな風に変わってきたぞ、というのが上巻。

ベルリンの壁の崩壊は、テレビの衛星放送という、当局が取り締まり切れない放送技術によって壁の向こうの暮らしをみた東ドイツ市民に取り返しのつかない意識の変化を与えたからだ、というのをどこかで読んだことがある。

そしてITバブルが光ファイバーを世界中に張り巡らせてはじけた後、インドや中国がそれを使ってどんどんアウトソーシングで仕事を獲得するようになった。
以下目次毎に感想。

*アップローディング:
大学のコミュニティなどで磨かれたソフト、ApacheやNetscapeがフリーで提供され、新しい生産の形を示すとともに産業構造の変化を加速させたという話。
また、ブロガーが一大メディアになったという話。市民は東西ドイツを隔てる壁によじ登ってガッツポーズをとった後は、自ら報道の一翼をにない始めた。

*オフショアリング:
中国で一括生産して安くて悪くなない服を流通させたユニクロはもう当たり前の存在になったな。トヨタはこの金融崩壊の中でも、アメリカ工場の工員を社員で雇い、自給にしても2千円とか3千円で雇用し、公園の掃除なんかさせているらしいが。

*サプライチェーン:
西友と提携したウォルマートとはどうした?クロネコヤマトの電動アシスト自転車配送トレーラーはアメリカにはないが、日本では環境にフィットしたシステムだ。そういうことは触れられなていない。

*インソーシング:
東芝の故障したノートブックを集配業者のUPSが2,3日で修理完了して届けてしまうって?日本は狭いからな。何でも屋のコンビニの配送トラックは一日3回も4回も回ってくるぞ。

*インフォーミング:
Googleか。ホリエモンが技術屋としてみれば別に大したことじゃないっていってたな。それはともかく、パウエル元国務長官は、情報収集を下の者にさせなくなったそうだ。そして、携帯メールで20代の広報担当の下っ端に直接仕事を頼んだりしたそうだ。

世界の流れを大きく知るレポートやエピソードとしてはいいが、頭にランプがつくような話を求めて読むなら、その前にググレカスだ。

この10年、経済がこんな方向に突き進んでくるなんて誰が予想できたか?
10年後、息子は安定した職につけるかと質問された著者もわかりませんと答えている。
全国のニート諸君安心しよう。10年後みんながどうなっているか、誰もアドバイスすることができない。
誰もみなさんを責めることはできない。ただひとつ、暮せなくなっても国の施策の失敗のせいにはできないほどフラット化の波は速いということは実感できる。IT業界にいると3年後の仕事すらイメージできないし。





『Googleを支える技術』(1)@北の丸公園

080923-161609.jpgabus_bordo.jpg北の丸公園、芝生の整え方は随一でシートなしで横になれる。でも夏以降は蚊が多くて読書にならない。あの池の水はポンプで水流を起こしておくだけでも蚊の産卵対策にはなると思うのだが。


多関節のフレーム傷対策に巻いているのは、ショルダーバッグの肩パッド。BSMには長さもぴったりで、ここは自転車をつかんで持ち上げるときにも重心がちょうどいい場所なので一石二鳥だ。


初めてGoogleを使ったときのランキング表示の驚きは今でも覚えている。当時のYahoo他の検索では、検索語をかえてやりなおしても、重たくてうざったい大手サイトが毎回上位に来ていた。でもGoogleなら、自分の知りたい単語でコアな情報を掘り起こしてくれるような感覚になった。あのランキング表示はやはり検索のたびにされていたのか。もちろんあらかじめインデックス化されたものに対してだが。
Google ウェブマスター ツールに自分のブログやRSSを登録しておくと、グーグルボットが自分のブログをどうクローリングしていったかとか、自分のサイトがどこからリンクされているかを見ることができて面白い。クローリングにエラーがあればみることもできる。






『超人類へ!』@彩湖





荒川沿いの彩湖の水際、いつのまにかこんなテラスができていた。高さが水面とほぼ同じでおしゃれだ。ただ、水道水用の池なのだが、水はきたなくて藻が生い茂っている。
写真の奥ではカモの数十羽がずらりと並んで日向ぼっこしていて、通りかかった僕を警戒し始めた。鳥の目は横向きについているので、よく見ようとすると当然横向きの顔。シフトチェンジしてペダルを重く、歩く速度よりも遅くして、無駄な動きを封じて殺気を消して横切る。1羽、5羽、10羽、警戒の鳴き声もない。リアハブフリーのちりちり音もなく、変態ゴム博士のラバーサスと高圧タイヤはタイルの上でも音を出さない。小さいタイヤのスポークのチカチカ反射も少ない。20羽、30羽。成功だ。モールトンのローインパクトの勝利!と思うと左側の土手で休んでいるローディがこっちをじろじろ見ていた。モールトン忍術は人間には通じない。

次は1羽のサギだ。10mくらいの距離にまで近づくと飛び上がってしまった。と思うとさらに10m先で戻ってきて止まる。悪いがこっちの進行方向も同じだ。殺気を消して進む。これが3回繰り返された。4回目、とうとうサギはイライラしたのか、グァグァわめきながら湖の方向に飛んで行った。こっちは追いかけ回したわけじゃないのに、知るかぼけ。



昔、ボルヘスという人がこんなことを考えた。もしアルファベット文字の全ての組み合わせを本にしていけば、人間の知性は過去と未来永劫全てにわたって、その図書館に収蔵されていることになる。誰がどんな本をこれから書こうとしたって、すでにその図書館には存在してしまっている。
Googleがやろうとしていることもこれと似ている。検索技術はナビゲーションのテクニックだから、収蔵さえしてしまえばどうとでもなるので、方法論は一貫している。インターネット上の全ての情報を集めろ、世界中の道路を360度のカメラで撮影して回れ、とにかく何でもわしづかみにして飲み込んでいけ。

前回読んだ『深海のYrr』に登場するゼラチン状の単細胞生物Yrrは、遺伝子を記憶に用い、細胞分裂によって種を維持しているため、太古の昔から記憶が途切れないという設定になっている。一方で人間は、死ねばそこで途切れる。人類はアインシュタインの脳そのものを継承することができない。大切な人が死ねば泣くよりほかないが、Yrrの場合は、永遠なる一つの母が存在して一つ一つの細胞には自己という概念もないのだ。そんなYrrと違って人間は、知性の伝達には個体という殻がどうしようもない断絶のもとになっているのである。

それを乗り越えようとする人間の願望は抑えることができない、というのがこの本。
少なくとも体を使って表現されているもの、音声、手や指の動きを行っているときの脳の動きをセンサーが読み取り、実際に指を動かしたりせずにその通りに機械を操作するのは現実になっている。シマノの新しい電動式STIレバーのブレーキ操作やシフトチェンジは「そう思う」だけで操作できるようになる。
ヨダレが口元を垂れればすぐタオルで拭いてもらえるのを当たり前だと思っている赤ちゃんのように、
人間が両足で地面を走るのに何の操作もせず、「思ったとおり、思うだけで」できるように、鳥が空を舞うのと同じようにして自転車で走れるのである。何てことだ!

さらに、機械の操作にとどまらず、もう少し高次な脳の働きだって可能である。トンデモナイ幸福感や性的興奮を電気信号を送って得られることも実験で確認されたとある。

話はここからだ。ナノワイヤーだかで接続されたそのインターフェースのもう一方を機械やコンピュータではなく人間に接続してしまうのである。恋人の感情を直に感じられてしまったら、いったいどんなセックスになってしまうのだろう。あるいはロボットアームがものすごいスピードでCPUの配線を組み上げていくように、学校の授業は変わってしまうかもしれない。
もちろん、それらのデータの挿入が意図したものでなければ、「なんだこれ」と前頭連合野で自覚して、接続を切ることはできるだろう。

しかし、これらの技術を使って人間がやろうと願うのは、個体の殻をつき破ることなのだ。
ボルヘスの大図書館であり、
Googleの理念であり、
知性のパンゲア大陸であり、
ユダヤ人のワンワールド思想のようなものなのである。

人間は、そんなYrrみたいになってしまうのかもしれないのである。

僕は、自転車を鳥の翼のようにしてくれるコンポをシマノが開発してくれればそれでいいけど。





ニコニコに若洲公園CR


ニコニコに若洲公園CRがアップ。

ここは車道のミニチュアみたいに道が細くて木もせまってくるので、ちょっとガリバーな感じになる。

ただ、レンタルサイクルもあって土日はファミリーが多く、子供がはしゃいで走ってるので飛ばせない。


ちなみにこのときイスを広げたのは5:12あたりの場所。






若洲でイス









こいつを買って(4kg)










自転車に積んで(わりと平気)









若洲公園で(ピターリ木陰ハケーン)













足を伸ばしたw







『カラマーゾフの兄弟4』@若洲ヘリポート

荒川河口に向かう。パレサイは10時ちょうどではまだ半分車が走っていた。コーンで仕切られた左側一車線以外はもう自転車道路になっているようだ。スパッと横切って右側に出る。広い道路の主役が自転車になったみたいな、なんかいい気分だ。
日比谷交差点を東に曲がり、銀座を抜けて晴海通りをまっすぐ走り、勝どき橋で隅田川を渡る。あれ、これお台場に行く道だったとここで気づいた。荒川は河口どころかもう海になってる。まあいいや、この前走った道をまた行こう。
さっきから信号待ちのタイミングが合っている、頭をグリーンとレッドに染め分けた黒いスペシャのクロスバイクのお兄さんがいる。こちらはゆっくり走っているので後ろにいたが、晴海大橋でアメトークに出てた自転車芸人のあのセリフを思い出した。
「フジテレビ行くときの晴海大橋のあの地上高く空を飛ぶような感じと、下り坂を飛ばすスピード感がたまらない」


スイッチオン。
記憶の彼方からよみがえってきた奥田民生のこの曲「股旅(ジョンと)」

踏め踏め踏めー細道~

橋のてっぺんで緑赤頭兄ちゃんをすっとばし、下ハン握って59km!
ほんまか。YPKのchoronometerのサイコンはよく電波混線するし。


お台場手前のレインボーブリッジ入口のところで信号待ちしていると、後ろから「すいません」と声が。
「それなんていう自転車なんすか?」
「これ?これはBSモールトン」
「へー、後ろ走っててもう全然追いつかなくて、それタイヤ小さいのに、はやいっすねー、これ友達に借りて二日目なんすけど、全然走らないんすよ」
どうやら、お台場の花火かの祭りのバイトで来るのに借りているらしい。スペシャの黒クロス、よく見ると全然メンテされてないようだ。
「タイヤは大きい方がやっぱり楽でよく走りますよ」「そうなんすかー」
なんか納得してないようだ。
「ウーン、シューズをペダルに固定してるのと、空気圧の高いタイヤが大きいかなあ」
黒クロスの前輪をつまんでみる。全然空気が入っていない。
「これもっと空気入れたほうがいいですよ。それだけでも全然違うと思うから」
「はー、いやー股間もすっげえ痛くて」(話聞いてるのか?)
「ははは、僕のは穴あきなんで、これいいですよ」
「え!、それ店でこうしてくれっていえばやってくれます?」
「いや、こういう種類のもういっぱい売ってますよ」
へー、とさっきから自転車をしげしげと見つめて、「ありがとうございました!」といって走って行った。

うーん、アメトークの自転車芸人が晴海大橋の話をして奥田民生の歌を思い出してそれでガシガシ踏んでたからだと、見ず知らずの人にいきなりそんなことは言えないしなあ。
キコキコ漕いでいると件の小説の一節を思い出す。
今から70年前、先進国から半歩遅れで近代化の道を歩んでいたロシア、人々はまだロシア正教、つまりキリスト教の枠組みの中で暮らしていたが、これから科学の進歩で神は死ぬのだというくだり。
p394
「だれもが、人はいずれ死ぬ身であって、復活はないことを知るので、死を、神のように誇り高く、平然と受け入れることになる。人間はその誇り高さゆえに、人生が瞬間であることになんら不満をこぼすことはないし、自分の兄弟を、もはやいっさいの報いなしで愛するようになる。愛が満たすことができるのは人生の刹那でしかないが、愛が刹那にすぎないという自覚ひとつで、その炎は、かつて死後の永遠の愛に対する期待の中で広がっていったのとおなじくらい、つよく燃え盛るのだ・・・」
復活というのはイエスキリストのそれで、死後の永遠の愛というのもそれにまつわるそれだ。永遠の愛はともかく、復活の事実については今はもうごくごく一部の信派でしか信じられていないと思う。
とはいえ、愛の刹那と永遠とのこの2重真理が現代人にとってすでに現実かといえば、とんでもない。

緑赤頭の若者よ、ぼくが言いたいのはこうだ。
「だれもがいずれ自転車を降りるのであって、自分の自転車が遅いことになんら不満をこぼすことはないのだ。君に必要なのは、もはやいっさいの報いなしで自転車を愛する(整備する)ことである。その愛(自転車整備)が刹那にすぎないという自覚ひとつで、その炎は、永遠につよく燃え盛るのだ!!」

別に燃え盛っていらんだろう。あの若者には。
でも速さときれいさを保つために乗るたびやっている整備は、刹那的な行為ではある。
女が一生に一度かのような真剣な目で毎朝毎朝尽きることなくメイクをくり返すように。

妄想もたくましく、前回写真を撮ったコンテナ埠頭。
ものの10分ほどでバカデカいタンカーが接岸されてしまうのが経済効率スゴす。神の御技でも愛の刹那でもなんでもない。









お台場を後にして、若洲のヘリポート横の一直線道。きれいに剪定された植木と、すぐ横に見下ろす海がずっと続く。これは気持ちいい。突端のベンチで一服して、若洲公園へ。

たち○ょんをして戻ったらBSMがかわいく見えたので親バカな一枚。









ヘリポートのベンチにもどる。今日は汗が出るほど暑くないし、海辺で蚊も襲ってこないので快適だ。本腰いれて読むこと4時間。ドストエフスキーの饒舌で感情的な登場人物たちも場が法廷となると、不思議と生き生きして見える。まるで誰もが有能な弁護士かのようだ。とくにイワン。この場では逆に言葉少なで、ギャップがちょっとかっこいいと思ってしまった。相変わらず読み進めるのは苦痛を伴う。海と波の音がまったく似合わん。

帰りに夢の島公園の前を通ると、なにやらよさげなズンドコ節が、疲れた脳と腹にひびいてくる。WORLD HAPPINESSという看板が。お、これが職場の人が行くと言っていたやつか。入ってみよう。当日券4500円。無理。というか、その人にもいくといってないからやめておこう。でも出演者をみると、興味ある人ばっかだなあ。BONNIE PINKは好きだったな。会場内の撮影はだめだろうけど、これは外だし、誰も見えてやしないので。








日暮れの孤独な葛西臨海公園

BSMを買って初めて遠出をしたのが4月29日。ネットで色々調べ、とりあえず荒川を走ってみようと決めて出た。社会人になって東京に来てからほとんど電車でしか移動したことがなかったから、自分の足で漕いで荒川に辿り着いて水面を見ただけで、中学生みたいにうれしくなった。
東京に来たといってもほとんど金を使うことはなく、勤務地という感覚しかなかったが、空がいっぱい見える開けた空間、漕ぐことに集中できる広い道、スイスイ進んで踏め踏めといってくるBSM。自転車はクルマやバイクと違い、その場所の地面に属している感覚がしてくる。
河口まで20kmという看板を見て、それが自転車でどれくらい先なのか見当もつかなかった。あと10km、あと5kmという看板。日が暮れるまでの時間や帰りの体力のことは考えないことにして、とにかく行ってみようと冒険気分になった。
ロードバイクの人を追いかけたり、少年サッカーを眺めたりしながら足が棒状態でたどり着いた海に面した公園。水平線を眺めて晴れ晴れしくなった。その時の写真。



今日はその場所にもう一度腰をおろして写真をとった。



比べてみると、自転車の知識もないところから3か月、ほとんど週末しか乗っていないのに、ほんとに夢中になっていたのが自分ではよくわかる。
バーハンドルは握る場所が一か所しかなく、振動も激しくてつらかったのでドロップにした。
チェーンリングは、オリジナルのモールトンには白くてかわいいガードなのだが、BSMの黒いのはどうしてもなじめなかった。46Tも小さすぎた。シルバーでポリッシュでフラクタルのように肉抜きされたのが欲しくて、TAアリゼの53Tを買ったが、いざ着けようとしてPCDなるものを知った。今はスギノの50Tだ。
サドルはTRKのExtraに落ち着いた。
シートポストは目いっぱい上げてもちょっと高さが足りず、太ももの筋肉ばかり疲労する感じも不満だったので、オフセットなしのシートポストを探した。THOMSONは細部の作りもデザインも超ナイス。
サドルもさらに一番前にセットしている。ステムも目いっぱいまで出した。

帰りに荒川を登っていると、日も落ちたのにやけに人が多いなと思っていたら、花火が上がりだした。8月第1土曜日は日本で一番花火大会のある日だそうだ。見えていたのは江戸川区花火大会だった。



荒川を外れて走り出したら、力士がデートしていて、横に並んで歩いているだけで歩道の幅を占めている。両国駅前で盆踊りをしていた。ちょうど最後の花火の見世物のところだった。


体も慣れてきて、葛西まで行って帰ってもほとんど疲れがない。一緒に走る女の子がいればいうことなしなんだが、こればかりはどうにもならない。






『カラマーゾフの兄弟 3』@北の丸公園


もはや大人買いの自己責任を取るために通勤電車の暇つぶしと化しているのだが、17時からBSMのデイバッグに『カラマーゾフの兄弟 3』を放り込んで皇居北の丸公園へ。日が傾いて人も少なく風が気持ちいい。涼しいものの、蚊も運んでくるので30分おきにセブンスター蚊取り線香に火をつけつつ、パチンと殺す。地面のアリがそそくさと撤去していく。自分の血がアリの巣に運ばれていくのもアヤシイ気分がする。

前を通り過ぎる観光客らしき白人グループが自転車をじろじろ見ていく。こっちはくわえタバコで対蚊戦中で、意味もなく喫煙者の肩身の狭い気分になる。そのスキをみて敵機は爆音とともに耳の穴に急降下ダイブをかましてくる。目を本に落とせばあーでもないこーでもないと嫉妬だの金だのの屁理屈をこねまわす登場人物たち。

あーもう。

ドSノエフスキー全部おまえのせいだ!




純正リアバッグとバウハウス・デッサウ展

先週上野に来た時にバウハウス展のポスターを見かけこれは行かねばと思っていた。というのも、15年前の頭でっかちな受験生のとき、試験で東京に来てJRのホームでバウハウス展のポスターを見て、駅のホームでそんな宣伝をする東京ってすげえなと思いつつ、大学が京都になって行けずじまいになっていた心のしこりを消化せねばという気持ちもあったため。おかげで当時の生パイプチェアが見れて、何だか実らなかった片思いにケリがついたか。今はニーチェアが欲しい。涼しくなったらニーチェアをBSMのリアキャリアに積んで公園に行きたいと思うが、70cm超で6kgというのは荷が重い。

BSMのオプションの布製リアバッグをつけてみた。カタログ写真からうかがえるおやじ臭漂うデザインではなかなか踏み切れないものがあった。しかも、写真のような深緑がよかったが、届いたのは黒。でも、それ以外はいい点ばかりだ。つくりはしっかりしているし、サイドポケットがすごく便利で、走りながらでも手を伸ばして出し入れができる。荷物もどっさり入り、出先の買い物でコンビニ袋をサドルにぶら下げてシャカシャカすることもないし、荷物の重心もサドルバッグより低い位置になって安定感もよし。今さらながらモールトン(変態小径)博士の理念に関心している次第。




adidas Cyclone@上野公園


adidasのシューズを買いにY's上野へ。ここは店員さんの姿勢もよくていい雰囲気。
El Moro > Minnret > Cyclone の欲しいもの順に足を入れてみる。展示品もうまくサイズをばらして陳列してあって、気配りを感じる。
El Moroは少し重い。靴ひもをマジックテープで止めるのはチェーンにひっかかる心配がなくていいのだが、履いた感じもゴツいイメージ。
Minnretは感触はいい。が、靴紐を通す穴がすべりやすく、きっちり縛るのに難があって致命的。
Cycloneは意外にもフィット感が一番で、軽さも好印象、細い紐でもきっちり縛れた。
こうなると問題は色。飾りのないシルエット勝負のデザインなので、黒は少し遠目にみるとヤボったい感じにしか見えない。しかし白は汚れが・・・沈黙で迷うこと5秒後、白に。念のため左にも足を入れて確認してくださいと、店員さんは非常に丁寧。

帰りに上野公園へ寄って、西郷隆盛像を拝む。30分ほど前のベンチで休憩していたが、途切れることなく人が訪れるのは、最後まで男を上げ続けた生き様に今でも慕う人が多いからか。今までみた公園の銅像では別格のようだ。薄暗い洞窟で自刀して果てようと、これまでもこれからも西郷隆盛の生きざまで心が熱くなる人は絶えないだろうと思う。薩摩のオラが主義的な文化は自分にはよくわからないし、大久保の故郷薩摩より国家を優先する姿勢もそればかりが正義だとは思はないが、不本意であれ、敗北と死が待っていることが分かっていてであれ、男を曲げずに通していく様は、物事はどうあるべきかという時にいつも思い出される。

自刀した西郷洞窟。もの悲しい。
シューズは買った帰りに一緒に撮っただけで意味はありません。西郷さん一緒に撮ってすみません。














『カラマーゾフの兄弟2』@荒川左岸




SWISS STOPのシューはブレーキレバーを握る力が7割くらいに減った。強く握った時の制動力も倍くらいあるかもしれない。カプレオのシューはフロント片側のトーイン角が強く固定されていたので面積の半分くらいしかリムに当たってなかったし、タイヤの回転数が大きい小径用だから固めのシューになっているのかもしれないが、それにしてもこの違いはウーン、なんなのだ。70kmほど走ってみて、Extraのサドルの具合もやはり良好だった。

荒川左岸は人も少なく、地平線を見ながら進む感じが右岸より好き。ただ、前ばかり見てカニ地雷を踏んでしまうと甲殻類の破裂音を聞かなければならない。川ガニは食べるとそこそこ旨いらしいが、こいつは子供だ。安全な背後を確保したつもりなのか、逃げようともせず、威嚇の姿勢もとらず、余裕の顔?でじーっとカメラを見ている。残念ながらその背後の壁はオレの靴であるが、余裕っぷりに免じて壁伝いに横歩きして立ち去るまで足は止めておいたので、カニ君にとっては壁のままである。

首都高から初めてみたときは、ラブホもここまでデカイのが現れたかと感想をいうと同乗者に笑われたディズニーホテル。葛西からみてもやっぱり大きい。顔を洗い、ソフトクリームを食べて、『カラマーゾフの兄弟2』。1冊目とは別の本かのようで、3ページも続くような意地汚いセリフもなく、文学的神学論が読ませられる。しかし、資本主義がせまりキリスト教の神の存在意義が変わっていく19世紀末、同じ毒舌作家ならマーク・トゥエインの旅行記のほうがずっと面白い。残りわずかの2巻を読み終えて、追い風にまかせて江北橋まで一気に上ったら足が売り切れた。サドルの先端に尻をひっかけて半スタンディングで残った筋肉を使う方法はこのサドルでも大丈夫なようだ。





『カラマーゾフの兄弟』@お台場

GoogleEarthでコンテナ埠頭に近づける場所はと探すと、お台場に発見。海浜公園と埠頭続きになって、ガントリークレーンがずらりと並んでいる。お台場へは皇居と日比谷公園の間の交差点を東へ一本道。途中の青梅海浜公園?でおばさんたちが何やら木に群がっている。木イチゴがいっぱいなっていた。一つむしって食べる。懐かしい味。ジャムにすると美味しそうだが、一人なのでやめる。でも帰ってきてちょっと後悔。フジテレビのある砂浜側の公園にも一本あったようだが、たくさんの人がいても誰も見向きもしていなかった。


台場公園に登る。100年前に欧米列強の黒船から江戸湾を守っていた幕府の砲台(砲身はたしか靖国神社の遊就館に展示してあった)に自転車を装着してみる。かつての列強国イギリスと日本との合作の自転車が、100年以上の時を経て東京湾を見つめる哀愁漂う後ろ姿、何かを物語っているような、気がしないでもない。いや、そんな思いに浸る間もなく、前に座っているカップルに変な視線を向けられそうなのでとっとと片付ける。

ドストエフスキーの最高傑作といわれる『カラマーゾフの兄弟』、読みやすい新訳が出て、ちょうど現在の日本を風刺したかのようで面白いと評判になり増刷に増刷を重ねて云々というので四部とも大人買いしていたのを、砂浜で読み始む。まだ一部と二部の少しまでしか読んでないが、現時点ではちっとも面白くない。登場人物は男も女も長いセリフをまくしたてる頭のおかしいのばかりで、事件や出来事が一体どう落ちがついているのかさっぱりわからない。


帰りに東池袋の新装なった大勝軒の前を通ったら、腹が減ってるのに気がついてUターンして自転車を前に止める。券売機の横で店の外を向いて座っているなんか変なおじいさんがこっちを見てると思ったら、あの名物主人の山岸さんだった。
タオルのはちまきではなくて普通のぼうしだったので気づかなかった。しゃがれた張りのない声でいらっしゃいと客に声をかけている。ただのじいさんならむしろ営業妨害に近いが、あのおじさんの場合は別だ。化学調味料ドバドバスープつけ麺の元祖的な店だというのを聞いて、なんか味の素の味がしそうな気がして今まで食べたことなかった。「もり」を注文する。海苔が貴重品だった江戸時代、ソバ屋で「ざるそば」といえば海苔なし、「もりそば」といえば海苔ありだったそうだが、そんなことを思い出しながら待つと「海苔」ありのスープがきて麺もしっかり冷えてる。どんぶり山もりの量に怖気づいたが、つるつると軽くて中華麺の加水くささもない。めんを浸す量でうまく味の調整ができて普通にうまくて完食。この感覚はたしかにざるそばを食べるときのよう。評判はあてにしてみるもの!『カラマーゾフの兄弟』もきっとこれから面白くなっていくのだと、気持ちもあらたに店を出る。




『コンテナ物語』@台場


『コンテナ物語ー世界を変えたのは「箱」の発明だった』404 Blog Not Foundの書評でぽちった。読み始めて、404氏の表現が大げさであることを理解したので、javascriptでコメント欄に匿名でひやかしていたら、秋葉原の事件が起きてぞっとしてしまった。

ネットで名無しで行動するのはえてして、実名や肩書ありでは話せない本音の内容だったりする。M.S(イニシャル)は淫乱だからこの携帯に電話しるとか、顔に出して行動できないが思ってはいること、トイレの落書き。秋葉原の犯人のように、親に仮面をかぶせられながら大人になって社会に適合ができず、携帯の掲示板で本性むきだしにして最後は現実の秋葉原で爆発終了しまうなんて、名無しの匿名と現実社会での実名、どっちが仮面だか本人にも区別できなくなっていったんじゃないだろうかという気もする。

個人のレベルから話を広げれば、本音と建前の使い分けに整合性がなくなっているのは企業も同じだ。役人やマスコミ記者が居酒屋で後日談して表に出ない話がネットで広まり、不祥事を隠しきれなくてあとから謝罪したり、あるいは犯罪予告の掲示板書き込みを警察が把握しなくてはとITゼネコンが数億円の見積もりを上げたと同時に、十分使える予告.inが話題になって役人仕事意味ねーってなったりするのは、ITゼネコンの中の人よりスキルのある人が外にうじゃうじゃいて看板の建前が通用しなくなっているからだ。

そういった情報社会の『フラット化する世界』が物流でも起きているというのが、404氏書評のこの『コンテナ物語』。コンテナの登場前、船での輸送は国家が運営する鉄道輸送と同じで、役人が協議して秩序を決めるシステムの中にあった。それが、スーパーに並ぶ世界中の食材からユニクロの500円Tシャツ、日本中の木造住宅の杉の柱まで、コンテナに詰め込んでタンカーで運び、港では中も開けずクレーンでトレーラーに積みかえては運び出すようになり、これで人々の消費生活レベルがフラット化していった。本書ではバービー人形にたとえている。アメリカの綿花が中国で生地になりインドネシアで服にして、日本で髪の毛をつけて世界中に運ばれ、親の収入の数千、数万分の1の値段で販売することができて世界中のより多くの女の子がハッピーになったというわけである。別の意味でいうと、ニートという人種も、月10万以下の日雇い派遣がなんとか食べていけてるのも、コンテナ輸送のおかげともいえる。

コンテナ輸送化により、多くの港湾都市や業界企業、団体の衰退絶滅がこの本では詳述されているが、同じような変化が今後も他の経済分野に及んでいくのだろうと思う。とくにIT業界での人材の流通では、予告.inがひとつの浮き彫りとなっているかもしれない。熱心にやれば立派に金を稼ぐはずの五体満足健康体の数十万人の成人ニートが、就労人口の一定のシェアを占めてしまっているというのは、何らかの社会構造が不適合をきたしているしるしだろうと思う。そんな人たちもフィットする、活用できるような形の産業構造になっていかないと、日本という国自体が人材や組織のコンテナ輸送からスルーされてニート化していくことになるかもしれない。

以前に世界の人口が100人だったらという例え話が流行ったが、経済的な幸福や不幸はゼロサムゲームで、お金の価格に換算された富はどこからともなく湧いて増えるわけではない。価格は常にモノの希少性とそれを欲しがる人の数の競争の結果が反映されている。ただ、コンテナ輸送のようにモノの値段全体をズドンと下げて誰もが幸福度を上げるような技術の場合は別だ。アメリカでコンテナ輸送が盛んになった60年代後半から80年代にかけては、日本も船会社をはじめ霞が関もアメリカの状況をよく観察し、港、船、鉄道、トラックと一度にシステムを変更しないと効果の出ない改革が、アメリカで確認されるやいなやタイミングよく莫大な予算を投入して実行されたとこの本でも言及されている。アメリカという実験地があり、日本が追いかけるべきグランドデザインが議論の余地もなく見えていれば、政官財の癒着構造もむしろ日本の誇れるやり方であり、効率のいいシステムだ。
しかし、政官財のトライアングルは、グランドデザインを自分で描いていたわけではない。だから新しい技術の種をまいて芽を育てることなんてできない。にもかかわらず、大企業の金看板とその業界団体、またそれらからキックバックを受ける政治家と役人のシステムは解体されない。その結果、トライアングルの目の届かないところで吹いた新芽を自ら踏み潰し、残るは荒地のみとなってしまいそうなら、自分が負け犬になる理由が納得できない狂犬の牙が秋葉原の次はそっちに向かってしまい、キナ臭い時代になっていってももうしょうがないのかもしれない。

最終章の「コンテナの未来」で著者は次のことばを引いている。
「あらゆる変化は誰かをより幸福にし、その分ほかの誰かを不幸にする」 (経済史家ジョエル・モキルという人)






『八日目の蝉』@北の丸公園

吉田茂、清水門、北の丸公園

北の丸公園で読み始める。ベンチに疲れたので芝生で寝て読むが、まだペダルを漕ぎ足りなくて体がむずる。
南方向へ。日比谷公園を散策した後、東京タワーの真下までいって、品川まで。坂を登って高輪を走って戻る。ステルビオのタイヤは同じ空気圧でもBSMのそれより確かに柔らかい。シルキーライドとうたうなら、よっぽどこっちのタイヤのような。

近衛師団が出入りする門でもあった清水門から入る。馬が登れるように作られたという階段を自転車をかついで登るのはなんか複雑な気分だ。登りきると吉田茂像が、なんでここに?
太平洋戦争で日本が負けたとき、昭和天皇の退位をとどめ、国民に謝罪するといったときもとめたとあるから、皇室をお守りしたという意味もあるのかなと思った。顔の表情、吉田茂という字の書体、ひっそりと設置された場所といい、天皇によく仕えたという点で共通点はあっても、楠木正成像とはマ逆の感じだ。楠木正成も城攻めにウンコ投げて応戦したというから同じくユーモリストでもあったかもしれないが。

自然体の眞鍋かをりのブログ5/12で、爆笑問題の太田さんに薦められて1日で読破して「なんともな気持になった」とあって読んでみた。
物語は主人公の女性が人の赤ちゃんを盗むところから始まる。もちろんその行為が肯定されているわけではないが、その犯罪に及ぶ主人公の、子を思う母の心は肯定も否定もせずに描かれていく。
主人公はつらい生い立ち云々でと情状酌量の思いを持つこともできないし、読み進むほどに、子を持つ母の意思は法を守る気持ちに勝るのだと、そんなありきたりなオチなわけがないという気がしてくる。公園で風にそよられてのん気に読んでる場合じゃなくなって、帰ってきてしまった。

明治から昭和初期の政治家は女を2,3人囲うのは当たり前だったそうで、現代も中小企業の社長などでは珍しくない。吉田茂も妻の死後に再婚した。スクープされて記者嫌いになり、コップの水を記者にぶっかけたりしたとか。複数の女性を同時に正妻とするのは、天皇だって許されないのが日本だ。
この本に登場するのは「女にだらしない男」ばかりだが、何をもって「だらしない」というのかは、好々爺然とした視線を振り向ける吉田茂像を見ても、「おまえでみつけろ」といわれているような感じだった。





『生物と無生物のあいだ』@砧公園

サイクリングコースとABUS

池田信夫blogでみて買った本『生命とは何か』も。このblogのタイトルもシュレーディンガーのヌコ本からとった。

自転車は壊れたらそこを直せば元に戻るが、生物はそうはいかない。
生物には時間がある。受精して分化を始めればもう後戻りはできない。各々のの細胞はそれぞれのメカニズムで分裂していく。そこに設計図を引いた監視者がいて、ミスを発見して統率しているわけではない。途中でここが失敗したからやり直すということができない。やり直しはきかない。

しかし、細胞分裂のDNAの複製時には一定の率でエラーが発生する。そのエラー細胞がさらに分裂を繰り返していけば、ガンとなってしまう。ガンが単に一定の率で発生するものなら、老若を問わず発病するはずである。しかし実際は違う。

ではこの問題を回避し、生命体の秩序を維持しているものは何か。

動的平衡だと本書ではいう。エラーが蓄積する率以上に、どんどん早く入れ替えてしまうのだ。およそ2週間で人体がすっかり入れ替わってしまう新陳代謝によって、我々の体は100年弱もその平衡状態を維持しているのである。つまり、

「秩序は守られるために絶え間なく壊されなければならない」(p166)のだ。

人生も、誰かとそれを共にするなら似ているかもしれない。
出会いと別れ、家庭生活、子供の成長。どれも後戻りができないものばかりだ。たとえ同じ屋根の下で毎日会話を交わしているとしても、人はそれぞれのメカニズムで人生を送っている。途中でここが失敗したからやり直すということができない。宗教によっては神や仏といった設計者、監視者を信じることで、その苦悩に答えを求めるかもしれないが、私にはこの切なさをそういうものが救ってもらえない。
気になり始めると、人と過ごす10分間にそんなことを感じてしまう。まるで上の写真の砧公園のケヤキの木のように、今ここでこう行動しないと二度と引き返せない枝分かれができてしまうのではというおそれである。

恋愛のことはじめならそこでぷっつり別れてしまうかもしれないが、仕事上での行動や人間関係の衝突ならそうもいかない。人生の後戻り不可能な分岐の危機は実は10分おきに起きていて、

「それが守られるために絶え間なく水に流されなければならない」(オレ)のだ。


刻々と繰り返されるこのメカニズムの衝突と水に流す行為、誰かと何かをともにするなら、まるでエンドレスのような日々に感じられるかもしれない。今日35才になったのも、後戻り不可能な何かに違いない。





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笹部 政宏
笹部 政宏
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